KEN-DESIGN主宰 プロダクトデザイナー

川﨑 和寛

1949 年生まれ
HONDA 卒業後、現在は...もっと見る
1949 年生まれ
HONDA 卒業後、現在は、KEN-DESIGN 主宰。

「夢を形に」をモットーに、企業から個人迄、様々なデザインを承っています。
介護界初の GOOD DESIGN 賞『軽量分割式訪問浴槽』を 2015 年受賞。
ライフワークでは、モノ造りテーマで沖縄市主催トークショー(2016 年) はじめ年間数回講演・研修会等活動中。
微力ながら皆様の要望・依頼に応えて参ります。

現在の愛車『PORSCHE 944S2』(1989 年)は、7 台目のクラシックポルシェ。
趣味は、共通の BIKE やクルマ仲間と過ごすエンジョイライフ。
当 CLUB での担当は、企画と管理。
モータースポーツやイベントを通じて、文化を高める活動を
楽しみながら行っています。

【ホンダ入社時のエピソード】
育英高専 ID 科から初の HONDA入社 1 期生。スポーツと BIKE 大好き少年が、生産部門の狭山製作所を経て和光研究所のデザイン科に配属され、憧れと念願のバイクデザインに携わり始めました。

通勤愛車は発売したばかりの CB750(ナナハン)で、毎日上福岡市(現在のふじみ野市)の独身寮から和光市までチョイ乗り。デザイン室に入った新人が、いきなりナナハンで通勤 !? が、社内で話題に。後日談では、大型バイク所有のバイクデザイナーは初めてだとの事でした。

当時は、和光研究所に 4 輪、バイク、汎用と全てが、同じ建屋で行われていた時代で在り、本格乗用車 CIVIC 誕生は、まさにこの時代。1972 年でした。活気がみなぎっており、バイクだけでなく4 輪にも本格参入したばかりの職場に入社して良かった喜びが、有りました。

やがてレジャーバイクの雄、DAX の TOP MODEL ST90 や、ホンダ初 2 サイクルモトクロッサー CR125(エルシノア)のアシスタントデザインを担当する日々から、益々バイク開発の楽しさにノメリ込み始めました。

社内クラブ、2 輪自己啓発活動とは、人間育成の場

1985年 全日本トライアル選手権 関東大会(栃木県鶏頂山) 本田朝霞研究所 2 輪自己啓発 Gr ブルーヘルメット MSC トライアル部門所属 モノクロの写真は、スペシャルステージをトライ中の筆者。 「乗って、走って、理解するデザイナー」を目指した時代。

もっとオートバイを知りたい。乗りたい。極めたい一心から、時間の足らないところは社内自己啓発活動を利用してオートバイ部に所属し、トライアル部門で全日本トライアル選手権参戦開始。

全国遠征しながらジュニアクラスに昇格。各地大会での上位ポイント獲得で、国際 A 級クラスに登りつめました。MFJ 年間ランキングのベストリザルトは、全日本 9 位でした。(2 輪開発の朝霞研究所を朝霞テック跡地に開設して本格活動した時期でもありました)

 

社内オートバイ部の環境は、歴代のロードチャンピオンやモトクロスの上位入賞者や経験者の強者が大勢おり、多くの先輩から厳しくもありがたいアドバイスを教授頂く日々。それが、その後のマシン造りや、レースの心得に大きく影響を受けました。

 

特に 1982 年鈴鹿で開催された鈴鹿 8 時間耐久レースでは、当オートバイ部のロード部門からマシン 3 台がエントリー。(ライダーは、2 人一組。計 6 名)

メカニックは、我等トライアル部門で賄う混成チーム。結果、台風直撃の影響で 6 時間に短縮ながら、世界選手権 1、2 位フィニッシュ達成。

この時の経験・体験。初めての国際レース舞台で、大きな自信になりました。

1982 年 世界選手権 第 5 戦 鈴鹿 8 時間耐久レース決勝リザルト

本田朝霞研究所 2 輪自己啓発Gr  ブルーヘルメット MSC が優勝

総合優勝(No27 飯島・萩原組)、   第 2 位(No28 伊藤・吉村組)

トライアル部門から、ロードのメカニックとして初めて参加。台風直撃で 6 時間に短縮された記憶に残る耐久レースは、最後までサバイバルレースに善戦。結果、刻々と変わる最悪コースコンデションの中で、あきらめない走りでチームが

勝利を得る。初の国際レース体験は、その後自身の F1 レース参戦に大きな影響となりました。

デザイン業務でも、トライアル活動がライフスタイルになっていた事から、初の本格トライアルワークスマシン RTL250(1975 年)のデザイン PL を担う事となりました。

プロジェクトメンバーは、大半が各部門から選ばれた国際 A 級の強者。良い刺激を受けながら一緒に仕事させて頂き。2 輪朝霞研究所がスタートして、最初にトライアルが世界選手権で優勝。

同じ敷地内で、同時進行の世界選手権モトクロス 500 とロードレース GP500 チームや関係部門にも大きな励みと勢いが付きました。

『用品研究所設立とヘルメット開発』後の社名 株式会社ホンダアクセス

第 1 話自己紹介で触れたアイルトン・セナ専用ヘルメット開発に至る経緯をお話し致します。

「技術は頂点で磨かれる」が社内の合言葉。目指すは、『世界 1 では無く?  宇宙 1 になれ!』と、創業者、本田宗一郎氏の名言が研究所に有りました。

バイクデザイン部門から、更に人に近いオプションや装備用品。ライディングギアのウエアやヘルメットを専門に開発する用品研究所が設立され、更にユーザーに近いディープな、開発が出来る事から、志願して最初の 2 輪デザイナーとして 配属。場所は朝霞研究所内に有り、2 輪、4 輪機種対応用品や、洋品(ウエアやヘルメット)の開発とデザイン業務で、多くの純正用品をテストと品質確認。製造、販売迄体験。

テストコースが所内にあり、バイク開発メンバーも豊富で、素晴らしい環境のそろっている研究所としてスタートしました。

世界初、ベンチレーションヘルメット

1985 年、HRC 監督の特例事項で、HRC モトクロスライダーの疲労軽減となる、蒸れないヘルメット開発要望が有りました。安全構造に快適機能を盛り込み、ライダーが実戦で TEST。当時の国際 A 級、佐藤健二選手と契約する事で、ベンチレーションシステム構造(世界特許)を実戦参加しながら開発。その後、HRC 国内モトクロスライダー(計 5 名)が被る事となりました。全国サーキットを転戦しながら、テストや実践でデータ収集。メンテナンス。フィッティング。曇り止めや汗対策で、ヘルメットが戦うギアとしての「技術とサポートの大切さ」をここから学びました。ライダーとのコミニケーション。健康管理。メンタル含めたヒューマンエンジニアリングは、このモトクロスの実戦体験で取得。

HRC 契約スポーツトレーナーで著名な田中教授(東海大)の人間工学。医療関連からの豊富なアドバイスが、ヘルメット開発に影響していました。

※HRC:Honda Racing Corporation 株式会社ホンダ・レーシング

サーキットが、自分の仕事場

自分の居場所と仕事場は、レース場。ホンダが必要な 3 原主義。

1.現場  2.現物  3.現実  になったのは、このモトクロス用ヘルメット開発で全国遠征した 1980 年前半でした。これが研究所、開発の合言葉として、自身への励みにもなりました。

理解してくれる上司。テスト結果を待って、機敏に対応する後方支援。開発メンバー。次の対策モデル設計と手配。ホンダヘルメット開発組織の礎は、この時に生まれました。

実は、スクーター用ヘルメットこそ No.1

とかく派手で注目浴びるレース界(ロード・8 耐・モトクロス)でしたが、 HONDA ブランドで製造販売が多い 2 輪は原付スクーター(50cc)で、当時の車両全体の構成比でも国内販売は 70% を占めていました。

ヘルメットテクノロジー先行開発は、バイクレースでトライ。その結果、特許。快適構造。製造方案。的確な価格販売等を、スクーター用ヘルメットに惜しみなく採用した事で、安価で、軽いベンチレーション標準装着。シールド付ハーフヘルメット(型呼称 F33)は、年間 50 万個製造の BIG ヒットになりました。

その後、髪が乱れないヘルメット(AMI)は、業界初の GOOD DESIGN 賞受賞し、ファッションデザイナー山本寛斎様とのデザインコラボも大きな話題性に。

ブランド名には、HONDA カラーを控えめにした無印商品的デザインで、男女兼用としました。

他メーカーのスクーターお客様にも、マッチするファミリーヘルメットのクラスレスを実現化。価格とデザイン性で、女性の関心事項(ニーズ)を捉えたモノ造りでした。

意外と知られてなかったスクーター用ヘルメットには、ホンダのテクノロジーが沢山込められていました。HRC モトクロスや、8 耐ロードでの技術ノウハウがてんこ盛りのファミリーヘルメットデビューです。日頃からバイク販売している販売店様の心をつかみ、積極的に販売に協力して頂ける事となりました。

また、原付乗車時には、ヘルメット被らないと違反になる法令が出来たのもこの時期(1975 年)です。この年から罰則強化(罰金)が施行され、ヘルメットが市場で品薄となる社会現象も起きました。

ホンダは先駆けて大量生産出来る最適素材の開発を進め、お客様に迷惑掛けない臨戦態勢を組んだ時代でもあります。F33 や、AMI シリーズは、色々なニーズや社会要望で生まれたヘルメットでした。

余談ですが、生産個数増産の為に、出来たばかりの 2 輪生産の熊本製作所の車両生産ラインを一部使わせて頂き、ファミリーヘルメット増産まで行い市場対応した時期でした。このミッションで何度も熊本に足を運び生産アドバイス、技術指導、品質性の設定、製造者スキル UP 等、多岐に渡る技術支援をさせて頂いた経緯が有ります。

 

第 2 話(後編)では、HONDA F1 ヘルメット RHEOS(レオス)誕生についてお話しします。