早稲田大学理工学術院教授

金子 成彦

東京大学名誉教授...もっと見る 東京大学名誉教授

謹賀新年

今年の干支は申ですが、小生は母親から「申酉荒れて戌温し」と聞かされて育ってきましたので、今年は変化の始まりの年ではないかと予想しています。とはいえ、故事の通りに数年後には落ち着いて欲しいものだと思っています。

猿の狂言面(山口にて)

山口大神宮に初詣

まず、小生のお正月の過ごし方についてお話ししたいと思います。毎年、暮れに出身地の山口市にある実家の管理、墓参、お寺さんへのご挨拶を済ませ、新年には山口大神宮にお参りします。

山口政事堂表門(後ろは鴻ノ峰)

NHK の大河ドラマ「花燃ゆ」をご覧になった方は記憶にあるかもしれませんが、毛利敬親候は幕末に萩から山口に拠点を移し山口政事堂を構えました。多くの志士たちが通った表門の向こうに山口大神宮はあります。

表門を抜けると程なく山口大神宮に到着します。この神社は、足利幕府の守護大名だった大内氏が構えた高嶺城の麓にあり、永正 5 年(1518 年)に大内義興(大内氏 30 代)が伊勢神宮から神霊を観請し、分社として創設されたもので、西のお伊勢さんと呼ばれて、江戸時代には多くの参拝客でにぎわったそうです。急な石段を上ると神楽殿に着きます。

山口大神宮神楽殿

そして、神楽殿の横の石段を上がると山口大神宮の外宮と内宮が見えてきます。伊勢神宮にお参りされたことのある方には、これが伊勢神宮のミニチュア版であることがお分かり頂けるかと思います。

山口大神宮外宮

山口大神宮内宮

山口と大内文化

さて、大内氏は、14 世紀の中頃から山口に本拠を置いていましたが、京都で応仁の乱がおこり、その兵火で京都が疲弊するのに対して、山口の町は平和で豊かでした。都から移り住む公卿や文化人などが多く、山口は西の京都といわれる程の繁栄を誇りました。

山口大神宮を創設した大内義興の時代には前将軍足利義植が京都を追われ、山口に来て大内氏に頼りましたが、義興は、永正 5 年(1508 年)6 月、これを奉じて上洛し、以後 11 年間、管領代として将軍に代わって室町幕府に関与しました。このほど、当時の大内氏の居館が復元されましたので、初詣の帰り道に立ち寄ってみました。現在は龍福寺という曹洞宗のお寺になっていますが、後世の改造部分を復旧して室町期当初の状態に復元することとなり、平成 18 年(2006 年)から約 6 年かけて工事が行われました。

修復後の龍福寺

大内義興の像

このように栄華を誇った大内氏ですが、天文 20 年(1551 年)、義隆(大内氏 31 代)が家臣の陶晴賢の謀反にあい、長門市湯本の大寧寺で自刃し、さらに、陶晴賢の擁立した義長(大内氏 32 代)が毛利氏に滅ぼされるに及び、その歴史は幕を閉じることになります。

戦略の重要性

一方、毛利元就は、ご存知の通り、陶晴賢を天文 24 年(1555 年)厳島の戦いで破り、中国地方の覇者となりました。その後、毛利氏は江戸時代を生き延びて明治維新で活躍し、日本の近代化に貢献する人材を多数輩出します。東京大学工学部の前身である工部大学校設立を建議した山尾庸三もその一人です。

このように、戦国時代を生き抜けなかった大内氏と戦国時代を生き抜き日本の近代化にも貢献することとなった毛利氏という二つの大名家の影響が山口にはあります。両者の違いは、生き残り戦略であったと思っています。先の見通しが立てにくくなった今の日本にとって大学の果たす役割は大きく、変わるべき点もありますが、守るべきものもあります。

次回は、教育現場の視点から見た戦略の立て方についてお話ししたいと思います。